仏前で手をあわせるとき、皆心のなかでどんなことを思っているのでしょう。
わたしは、お墓や位牌にその人が眠っているというよりは、あちらこちらに漂っているように思っていて、彼を思い出す度に心のなかで話しかけているので、いざお参りをする段になると、敢えて何を祈ればいいのか、わからなくなります。
「がんばってるよ」とか「元気?」(というのは妙かもしれないけど)とか、そういうことを語りかけるものなのでしょうか。


最近では、気がつくとたまに、彼に自分の未来のことを祈っていたりして、そういう自分に気づくと、切なくなります。神さまになったわけでも、何でもないのにね。
そもそもわたしたちは、大層な未来や壮大な夢を語り合う、そんな間柄ではなかった。ただただ、くだらないやりとりやたわいもない時間が楽しかった、それだけだったはずで。
話したこともなかった胸の内を、今になって打ち明けるなんて。
忘却とか美化とか風化とか。生きていくということは、つくづく身勝手なことです。


そんな身勝手な酔っぱらいたちの傍らで、お兄さんがひっそりと位牌に手を合わせていました。
彼とそっくりな口調と言い回しで、彼とそっくりな酒豪ぶりをみせる、お兄さん。その心中は、わたしなどでは察することもできません。


こんな光景も、わたしはこの先どんどん、どんどん忘れていってしまうのでしょうか。