Visiting Hours

Facebookに、高校の同期生が急死したという知らせが届いた。

 

こういうメッセージが連絡網的に届くということは、私が何か高校の同期のコミュニティに参加していたんだろうか、と、疑問に思うくらい、Facebookはもう長いこと活用していなくて、ただアカウントを保持しているだけのSNSだけれど、メッセンジャーがアップデートされていたり、通知がスマホの待ち受けに表示されるようになっていたり、私の預かり知らぬところで進化していて、こんな時にもリアルタイムで情報を届けてくれる。電話や郵送が主だった時代だったら、私はきっと置いてけぼりになっていたことが多かった(事実、皆の実家には定期的に届いているらしい出身校からの郵便物は、実家が引っ越してその連絡を怠っている私の元へは、もう届く術がない。)

 

同じクラスになったことはない。名前は知っている、顔はたぶんあの子だろうと思い出せる。けれど、話したことがあるかどうか記憶がない、あったとしても一言二言くらいかなという程度、向こうも高校を卒業してから(むしろ高校に在籍していた頃でさえも)私のことを一度も思い出すことがなかっただろうと思う、そのくらいの距離感の同期生だ。

 

親しかったであろう同期生たちが驚きと嘆きの言葉を投稿し、さほど親しくもなかったであろう人たちから、供花に参加させてください、という申し出がいくつも飛び交うなかで、私は沈黙することしかできなかった。

近しさの度合いは置いておいて、同じ時に同じ学校に通った同期生として、誰かが場を設けてくれているのだから、哀悼の言葉を発するくらい当然のことだ、と思う方がマジョリティなんだろうか。

こういうところが私は面倒な人間なのだろうか。

 

でもね、あなたのことは憶えていないけれど、私は悲しいよ。

あなたがこの20数年どんな人生を辿ってきたか、というか、同じ高校で過ごした3年間も、どんな人たちと、何に心を弾ませ、どんな未来を描いていたのか、そんなことも知らないけれど、同じ時期にあの同じ空気の中にいた人間として、間違いなく早逝であるあなたについて、私は悼んでいる。

そして、あなたとも私とも繋がっている人たちが、突然の知らせに心を痛めていることが伝わってきて、こんなことが起こらなければよかったのにと、本当に思っている。予期しない悲しい出来事は、人生で少ない方がいいに決まっている。

何より、まだもう少し続くことを疑っていなかった人生が、強制的にシャットダウンされることについて、あなたが最後にどう感じたか、ここ数日それが頭から離れなくて、そこはかとなく辛い気持ちだよ。

 

どうか安らかに。

そしてあなたが大事に思っていただろう人たちの悲しみが、どうか段々と癒えていきますように。ずっと這い上がれないという人がいないように。