崩壊する年越し

年越し。
大学生の頃以来30代前半までは、カウントダウンイベントに行ったり夜通し友達の家で騒いだり、実家で紅白を観ることすらなかったけれど、ここ何年かはすっかり実家で紅白鑑賞派に逆戻りしていた。
齢をとって、から騒ぎが億劫になってきたということもあるかもしれないけれど、自分の人生において家族と過ごせる時間そのものがカウントダウンを迎えていることを、うっすら感じとっていたのかもしれない。

2013年、父が脳出血で倒れた。
父が入院していたその年末は、過ぎた年を振り返り来る年に希望を抱くような心持ちにもなれず、年越しのときにどんな気持ちでいたかもよく憶えていない。

2014年の2月、父が死んだ。
そして父がいなくなった2014年の年末、母と2人きりであった。

喪中にかこつけて大掃除もお節づくりもパス、正月行事に重きを置く人がいなくなったのをいいことに、年末年始感のなさが半パない実家。大晦日が迫るなか、なんだか気分が晴れない、もやもやとした数日を過ごした。

そんな折、『久保みねヒャダ』(フジテレビ)で、能町みね子さんがご実家での年越しの様子を語られていた。
能町さんのご実家では、皆でカウントダウンをして新年、という年越しの概念が既に崩壊していて、お母さんが大晦日の23時45分頃にお風呂に入りにいってしまう、というような話をしていた。

すごく腑に落ちた。

家族で年越し蕎麦を食べて~紅白を観て~ゆく年くる年で~12時になったら「おめでとう」を言い合い~元旦の朝には早起きして~お屠蘇とお節とお雑煮─生まれてこの方、実家で過ごすのであればそんな「年越し」が定番であると思いこんできた。
あのもやもやは、それを逸脱してしまうことへの呵責と恐れであった。
そして、父が死んでしまったことによって、「父─母─子」という30数年守ってきたわたしの家族のフォーメーションが、わたしの家族が壊れてしまったことに対する、茫洋とした哀しみでもあった。

だけど年越しの形なんて、どうということもない。
迎え方の形を変えたって、新しい年は他の人と平等に今年も母とわたしにやってくるし、まぎれもなくわたしの家族である母は、まだここにいる。

というわけで、2014年から2015年になる瞬間に、わたしは読書をしながら入浴していた。母は既に寝床に入っていて、わたしがお風呂から出たら、ジルベスターコンサートをテレビで観ながら歌う母の声が聴こえてきた。

なんだかすごく、すっきりした。

また母やわたしがそんな気分になったら、はたまた家族が増えたりした場合には、また定番の「年越し」を迎えてもよいし、この先ずっとこんな年越しやお正月だっていいのだと思う。
フォーメーションは変わったけれど、わたしの家族は崩壊してはいない。スライムのようにゆるゆると、また形を変え続いてゆくのだろう。