机の上にひっくり返した、かたいイス

仕事関係の方のイベントで、いくつかのバンドのライブを観る機会があった。

大バコではない小さなライブハウスでのライブ。いわゆる「メジャー」ではないバンドとの出会い。

それ自体がとても久しぶりで、少しノスタルジックな気持ちになって、少し気持ちが昂揚していた。

 

学生の頃は、友達のだったり友達の友達のだったり、通ってた、とまでいう頻度ではないながら、下北沢や吉祥寺、新宿や青山の小さなライブハウスやクラブに出入りすることは、日常的にあった。

しかし、バンドやDJをやっていた人も就職して結婚していつのまにか活動をやめ、今でも大なり小なりバンドやDJを続けている噂を聞く人もいるけど、そんな人たちとはいつ頃からか疎遠になってしまって。何よりいつのまにか、自分の生活がライブハウスやクラブから離れたサイクルになっているということだ。

 

4つ観たステージのうちのひとつの、三回転とひとひねり、というバンド。

4ピース編成の彼女たちの実際の齢は知らないけれど(おそらく10歳近く下なんじゃないかと思う)、演奏も演出も外見も、なんだかすべてがすごく初々しく見えて、観客を少し突き放した感じの素振りがまたとても青臭く感じられて、導入は「あ~若いね~」で過ぎ去るだけのはずの印象だった。

でも、ある曲をしばらく聴いていたら、死んでしまった高校時代の友人のことを、すごく、すごく思い出した。

 

『廃校が不服』という曲らしい。


【フル試聴】 三回転とひとひねり『廃校が不服』 - YouTube

 

学校や学校時代の友達のことを描いた曲だからだろうか。曲の間中、教室や授業や、廊下や中庭や、学校の色々な場面でのあの頃の彼を、どっぷりと思い出した。ついでに、退屈だった古文の先生の顔と名前も思い出した。

一緒に観ていた会社の人たちは気づかなかったし、むしろうとうとしていたけれど、わたしは少し泣いた。

こんなポエムを読むみたいなパフォーマンス、いくらでも世の中にはあるしたくさん聴いてきたはずなのに。小さな懐かしいライブハウスで、わたしは確かに揺さぶられた。

 

彼が死んでから、今年でちょうど10年だ。あっという間だ。あっという間ではなかったほど苦しい時もあったけれど、やっぱりあっという間だと思う。

彼は9.11は体験したけど3.11にはいなかった。いろんな人が亡くなったのも、友だちがたくさん結婚したのも、彼らがお父さんやお母さんになったのも、見ていない。
だけどなぜだろう、彼が今のわたしより10歳も若いままだなんてちっとも思えなくて、今でも彼とわたしの時間は平等に流れているように感じるときがある。

うまく言えないけれど、齢をとって久しぶりに行ったライブハウスで、またあの頃みたいな気持ちで初めての音楽を聴く、そんなことだろうか。

あの日、彼がマンションのベランダから飛び降りたのか、落ちちゃったのか、それは10年経ってもはっきりとは分からないけれど、その真ん中くらいだったらいいと、今は思う。

お墓には誰もいません、なんて嘯いてしまって、毎年彼のおうちにしか行かないけれど、今年はお墓にも行こう。

仙人の欠員

間もなく会社を辞める人を誘って、いっしょにお昼ごはんを食べた。

夜に飲みに行ったことはあったけれど、思えば明るいうちにご飯をいっしょに食べるのは初めてだ。なんだか変な感じでもあったけど、話し出すと、とたんに飲み屋みたい。

人の悪口を言わない、嫌がらない、受け容れる、怒らない、斜に構えない。

仙人のような人でした。

パスタランチを向き合って食べるのは、きっと最初で最後。これまでありがとう。これからの日々が、健やかで得るもののが多いときとなりますように。

 

今月もうひとり、夏にはまたもうひとり辞めていく。なんだかそわそわした日々になりそうだ。

 

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水の中のナイフ

お誕生日はどこでディナーしたい?と聞いたところ、水槽のあるお店がいい!と彼は答えたらしい。まったく、ゲイの彼らは、わたしよりよほどロマンチストな面がある。

というわけで、どしゃぶりに降られながら、青く薄暗いお店でお誕生日会。

バブル時代はこんなお店ばかりだったんじゃないかな、というイメージです。

イソギンチャクが動いた、あの魚はうんこしてる、唇がヘルペスみたいになってる、あれは食べられるのかな、いやコレ生け簀ではないし。わいわいと魚を観察しながら、魚を食べる。

 

すっかり雨が上がって、月明かりにがっつり照らされる帰り道。

お誕生日おめでとう。厄落としも済んで、きっと残りはよい年になりますよ。

 

馥郁たる春を待つ

3~4年前からお直しどきだと思っていたけれど、高額な修理代にひるんでなかなか思い切れなかった黒いライダースジャケット。しかし、久々に着ようと思って引っ張り出したら、さすがに色の剥げ方と皮の破れ方がみずぼらしいレベル…

えいやと思い立ち、いよいよ修理とクリーニングに出してきた。

「結構着込んでいらっしゃいますね。何年前にご購入されました?」というお店の方の問いに、「えっと…15年くらいですね」と答え、我ながらびっくりした。

買った時のことはいまだ鮮明に憶えている。今でも世の平均以下であろう給与が、更に雀の涙ほどの金額だった頃、6万円を超える本革のライダースジャケットは、わたしにとってとっても高い買い物だった。その割には即断したほど、袖を通した瞬間に気に入ってしまった。

特に有名なブランド物ではないけれど、イタリアからのインポートで、細身すぎず多少のゆとりもあり、丈は腰骨にかかるくらいで短すぎない、シンプルなシングル。

 

もともとのミーハー気質から色々な服を着たい気持ちが強くて、服はチープなものを好んで着てきた。

おしゃれな友人たちや、ソニア・パークみたいな、マガジンハウスの雑誌に出てくる人たちに強い憧れはあって、彼らみたいにシンプルな色合いで上質なセーターやシャツも持っていたいけど、これを買ってしまったらワクワクするような色やデザインの服を買うことができないし…(お金、ないし…)
安くて流行りのものは、2シーズンくらい着たら繊維も気持ちも劣化してしまうものが多いのは自明だ。分かっていながら、“安物買いの銭失い”を王道でいき、フェアトレードやエコとは真逆の嗜好を持つ自分に、少々嫌気はさしていた。

だけど、大切に長く愛用しようと意識したことはなかったけれど、本当に気に入ったものは、私でもこうして長く使えていたのだ。
そういえばあのブーツも、バッグも、このネックレスも、バングルも。バングルに至っては、何度も修理に出して、修理代が購入額を超えてしまっている。


齢を重ねて、あらゆるトライアンドエラーを繰り返して、自覚のないうちにも取捨選択の力がつき、自分にとって不要なものは削ぎ落とされ、本当に便利で大切なものだけが手元に残っていく。

いくら雑誌で『長く着られる服』や『スローファッション』というような特集を見ても憧れても、自分には適用できずにもどかしかったけれど、いつのまにか、地で『長く使う』をいっていた。

憧れだけでは到達できなかった場所へ、実体験を積み重ねて、ようやく近づくことができていたということだ。

 

ライダースのお直しはだいぶ混んでいて、出来上がりまでなんと1ヶ月待ち!この春にちょうど間に合うか間に合わないかの時期だけれど、どんな顔をして帰ってくるのかが楽しみだ。

 

夕飯は、通りすがった中目黒の八じゅう。

壁に描かれたリリー・フランキーのサインがかわいい。店員さんも皆にこやかで親切。尾道焼き、初めて食べた。

 

世間は不穏なニュースばかりだし、会社の先行きは不安だし、アレルギー全開で体調は低空飛行だし。ここのところ打開策もない靄のなかで気持ちが落ち込みっぱなしだけど、春に向けて、少しは前向きにシフトできるかな。

父の履歴

もうすぐ父が亡くなって1年。
歯ブラシとか下着とか、もう必要ないことが明白であるものは母が早々に処分していたけれど、人が70年近く生きた軌跡を払拭するには1年という時間はまだまだ短すぎるようで、家のあちらこちらからまだ父が使っていた物が出てくる。

先日は「これパパが使っていたパスモ、返してきて」と母からICカードを渡された。

駅の券売機でまだ600円あまり残金があることを確認、そのまま取り出して窓口に行こうとしたけれど、ふいに思い立って『履歴表示』のボタンをタッチしてみた。

そこには、自宅の最寄りバス停から、父が聴講生として週に数回通っていた大学のあるバス停までの往復の履歴が、几帳面に、周期的に、淀みなく記されていた。何とも真面目な男である。と同時に、定年退職をしてからは、大学へ行く以外には交通機関を定期的に利用する機会ももうなかったのだなと思い至る。

この半径3km程の範囲のなかに、父の静かな毎日があったのだ。

 

履歴の一番最後だけは、片道。6月20日。この日に父は大学で倒れ、それから二度と我が家に戻ることはなかった。

 

結局私はまだ父のICカードを返却できずに持っている。履歴を見たことを、母には言わなかった。とりあえず残金を使ってしまおうと思っているが、その後にこのカードを返却できるかは、まだ分からない。

崩壊する年越し

年越し。
大学生の頃以来30代前半までは、カウントダウンイベントに行ったり夜通し友達の家で騒いだり、実家で紅白を観ることすらなかったけれど、ここ何年かはすっかり実家で紅白鑑賞派に逆戻りしていた。
齢をとって、から騒ぎが億劫になってきたということもあるかもしれないけれど、自分の人生において家族と過ごせる時間そのものがカウントダウンを迎えていることを、うっすら感じとっていたのかもしれない。

2013年、父が脳出血で倒れた。
父が入院していたその年末は、過ぎた年を振り返り来る年に希望を抱くような心持ちにもなれず、年越しのときにどんな気持ちでいたかもよく憶えていない。

2014年の2月、父が死んだ。
そして父がいなくなった2014年の年末、母と2人きりであった。

喪中にかこつけて大掃除もお節づくりもパス、正月行事に重きを置く人がいなくなったのをいいことに、年末年始感のなさが半パない実家。大晦日が迫るなか、なんだか気分が晴れない、もやもやとした数日を過ごした。

そんな折、『久保みねヒャダ』(フジテレビ)で、能町みね子さんがご実家での年越しの様子を語られていた。
能町さんのご実家では、皆でカウントダウンをして新年、という年越しの概念が既に崩壊していて、お母さんが大晦日の23時45分頃にお風呂に入りにいってしまう、というような話をしていた。

すごく腑に落ちた。

家族で年越し蕎麦を食べて~紅白を観て~ゆく年くる年で~12時になったら「おめでとう」を言い合い~元旦の朝には早起きして~お屠蘇とお節とお雑煮─生まれてこの方、実家で過ごすのであればそんな「年越し」が定番であると思いこんできた。
あのもやもやは、それを逸脱してしまうことへの呵責と恐れであった。
そして、父が死んでしまったことによって、「父─母─子」という30数年守ってきたわたしの家族のフォーメーションが、わたしの家族が壊れてしまったことに対する、茫洋とした哀しみでもあった。

だけど年越しの形なんて、どうということもない。
迎え方の形を変えたって、新しい年は他の人と平等に今年も母とわたしにやってくるし、まぎれもなくわたしの家族である母は、まだここにいる。

というわけで、2014年から2015年になる瞬間に、わたしは読書をしながら入浴していた。母は既に寝床に入っていて、わたしがお風呂から出たら、ジルベスターコンサートをテレビで観ながら歌う母の声が聴こえてきた。

なんだかすごく、すっきりした。

また母やわたしがそんな気分になったら、はたまた家族が増えたりした場合には、また定番の「年越し」を迎えてもよいし、この先ずっとこんな年越しやお正月だっていいのだと思う。
フォーメーションは変わったけれど、わたしの家族は崩壊してはいない。スライムのようにゆるゆると、また形を変え続いてゆくのだろう。