Starting Over
お正月の出来事。
親族の宴会の合間に、甥と姪と買い出しに出かけたところ、自宅近くの駐車場で横たわっている老女を発見。
胸元で両手を組み、あまりに行儀よくまっすぐに臥しているので、正月酒で酔って道端で寝てしまったのかなと思ったけれど、大丈夫ですか、と声がけしても朦朧としてお話になれず。
私たちが老女に声がけしつつ、救急車を呼ぼうか?いや交番まで走った方が早いのでは?などと話し合っているうちに、続々と通りすがりの人々が集まってきて、119に電話しましょうか、かからないですね110番しましょうか、自宅が近いので親に家の電話からかけてもらいます、毛布と枕もってきます、脈とってもいいですか、と、誰も彼もが驚くほど対応が迅速で心強く、少しびっくりした。
そのうちに近くの交番からまず巡査が、警察署から刑事さんが、最後に遅れて救急車が到着、老女は無事に搬送されていった。特にAEDも酸素マスクも使っていなかったし、声がけするうちにご自宅の住所やお名前も判明したみたい、無事におうちに帰れるといい。巡査と刑事さんと救急隊に、第一発見者として発見したときの状況を3回説明させられて、ドラマと同じだと少し興奮しました。
誰かが声かけているから大丈夫だろうという気持ちとか、関わるのが面倒という気持ちから、新宿や渋谷の雑踏やホームでうずくまっている人を見かけても、よほど近くにいない限りは遠目でやり過ごすことがある。けれどあの日は、コロナ禍だから知らない人に触れたくないとか、誰かがやるから自分はやらなくていいのではとか、そういう類のためらいが、その場の誰からも感じられなかった。寒空の下で救急隊が到着するまで待たされても、誰もぼやきすらしなかった。
お正月休みで心にも時間にも余裕があったのかもしれないけれど、新年早々、東京砂漠も捨てたものではないとあったかい気持ちになったし、甥と姪も当然のように助けようとしたことが嬉しかったし、あの場で人を助けようとした全員にとって、新しい年が良い年となりますようにと願ったのでした。
最近読んだ本
5~6年前に読んで感銘を受けた『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている―再生・日本製紙石巻工場』の佐々涼子さんのとあるツイートをTwitterで見かけて、彼女の本を読みたくなり、立て続けに2冊読む。
どちらも泣きました。
描写が著者個人の感傷に持っていかれているなという箇所も時折見られたけど、そういうノンフィクションの方が、著者の熱量を感じることで心に迫ってくる、私はその方が好きだ。
後者はずっと私のバイブル『闇金ウシジマくん』を思い出しながら読んでた。
自分のささやかな世界線では知りえない職業や人生の重量を感じる新年。
My Choice of Shoes is Ill
出版業界に長く勤めていながら、電子書籍を活用しはじめたのは業界を離れた後だった。
世の中には死ぬまでに読みきれないほどの本がまだまだ溢れていて、やっぱり全部リアル書籍の形態で購入していたらね、部屋がいくらあっても足りないよね、数年置きに選別して処分するのもなかなかに労力が要るよね。という、長年リアル書籍派を譲らなかった、自分に対する譲歩。
あれからかれこれ5年くらい?何かエンターテインメントの要素が強い文章を読みたいとか、コミックの続きが気になるけど蔵書として持っておきたいほどの思い入れはないとか、そのような際には電子書籍で購入するようにしている。
アート系のビジュアル本はもちろんリアル書籍がいい。文字データを持っていないFIX型形式のものはなるべく買わない(前にこれを買って読むのにえらい苦労した)。何度でも読みたい本はリアルで買う。
など、自分のなかで切り分けているけれど、たまに電子書籍で気軽に買ったのに、読み進めるうちに思いのほか感銘を受けることがあって、なんでリアル書籍で買わなかったんだろうととっても後悔することがある。
電子書籍の一番の欠点は、面白かった本を読んだときに、「ねえねえこれ面白かったよ」と親しい人に勧めることができないこと。いい本に出会った時の感動は、その興奮と共に人と分かち合いたいのです。
最近読んだ本
一人の人間の生きざまとか、半生とかを時系列で描いたものは、筆力がないと読者を引き込むことができない。その意味ではとても筆力のある著者だと思った。最後まで一気に読んだ。そして最後はある程度泣いた。
しかし、設定としては湊かなえの『Nのために』をとっても思い出した。あれはミステリの要素があったけれども、閉塞的な島社会で、互いに家族の問題を抱えているけれども逃れることができず、それがゆえに固い絆で結ばれる。行く先の運命も似ている部分がある。なんだろう、離島という環境での恋愛を物語の要素に据えると、似てくるんでしょうか。
電子で買って(これぞ文字データのないFIX型!)、リアル書籍も購入した本。
自分が見えていることだけを真実として捉えてはならない。そうしないことで拓けていく世界ののすばらしさ。アートが与えてくれる豊饒な体験、そこから拡がる可能性。
私がアートが好きで美術館や博物館に足を運んでいるからこそ琴線に触れた本なのか、まったくアートに興味関心がなくても心を動かされるのか。それは知りたいところ。
Visiting Hours
Facebookに、高校の同期生が急死したという知らせが届いた。
こういうメッセージが連絡網的に届くということは、私が何か高校の同期のコミュニティに参加していたんだろうか、と、疑問に思うくらい、Facebookはもう長いこと活用していなくて、ただアカウントを保持しているだけのSNSだけれど、メッセンジャーがアップデートされていたり、通知がスマホの待ち受けに表示されるようになっていたり、私の預かり知らぬところで進化していて、こんな時にもリアルタイムで情報を届けてくれる。電話や郵送が主だった時代だったら、私はきっと置いてけぼりになっていたことが多かった(事実、皆の実家には定期的に届いているらしい出身校からの郵便物は、実家が引っ越してその連絡を怠っている私の元へは、もう届く術がない。)
同じクラスになったことはない。名前は知っている、顔はたぶんあの子だろうと思い出せる。けれど、話したことがあるかどうか記憶がない、あったとしても一言二言くらいかなという程度、向こうも高校を卒業してから(むしろ高校に在籍していた頃でさえも)私のことを一度も思い出すことがなかっただろうと思う、そのくらいの距離感の同期生だ。
親しかったであろう同期生たちが驚きと嘆きの言葉を投稿し、さほど親しくもなかったであろう人たちから、供花に参加させてください、という申し出がいくつも飛び交うなかで、私は沈黙することしかできなかった。
近しさの度合いは置いておいて、同じ時に同じ学校に通った同期生として、誰かが場を設けてくれているのだから、哀悼の言葉を発するくらい当然のことだ、と思う方がマジョリティなんだろうか。
こういうところが私は面倒な人間なのだろうか。
でもね、あなたのことは憶えていないけれど、私は悲しいよ。
あなたがこの20数年どんな人生を辿ってきたか、というか、同じ高校で過ごした3年間も、どんな人たちと、何に心を弾ませ、どんな未来を描いていたのか、そんなことも知らないけれど、同じ時期にあの同じ空気の中にいた人間として、間違いなく早逝であるあなたについて、私は悼んでいる。
そして、あなたとも私とも繋がっている人たちが、突然の知らせに心を痛めていることが伝わってきて、こんなことが起こらなければよかったのにと、本当に思っている。予期しない悲しい出来事は、人生で少ない方がいいに決まっている。
何より、まだもう少し続くことを疑っていなかった人生が、強制的にシャットダウンされることについて、あなたが最後にどう感じたか、ここ数日それが頭から離れなくて、そこはかとなく辛い気持ちだよ。
どうか安らかに。
そしてあなたが大事に思っていただろう人たちの悲しみが、どうか段々と癒えていきますように。ずっと這い上がれないという人がいないように。
How Far We Have Come
暗がりのなか橙色に灯る提灯、走り抜ける子供たち、風鈴の音、行き交う浴衣姿の少女たち。
「あの小説、『夜市』みたいだね」と言われる。正に同じことを思っていて、みぞおちがきゅっとした。
すごく気が合うね、私たち運命的だねと、少女マンガどっぷりだった10代の頃なら浮足立っただろうけれど、今感じるのはそういうことではなくて、何だろう、すごく貴重だということ。ありがたや〜って拝むような気持ち。
同じものを見ているのに、度肝を抜かれるくらい自分とは違う受け止め方をする人がいるということ。
喉が擦り切れるくらい言葉を尽くしても、分かり合えないことがあるということ。
10代の頃知らなかったことを、私は今たくさん知っていて、そんなことを感じ入るときがくるなんていうことも、あんなに小説やマンガを読んでいても、あの頃の私は露とも思っていなかった。すごくいろいろなことを知っていると思っていた。
思えば遠くへきたもんだ。
起きると思うことは絶対に起きない
マイク・ミルズ監督『カモン カモン』を観た。
家族の事情から数日間を一緒に過ごすことになった伯父と甥の、プチ・ロードムービー的な物語。
全編白黒なのにとても温かい映像、こんなに美しいアメリカの街々は初めて観た。
人は人との関係性のなかで感じたこともない葛藤や確執を体験するけれど、それと同時に活力をもらうし、癒されるし、成長する。独りでは進めなかった道を選んで、前へ進むことができるようになる。
9歳のジェシーが語る。「起きると思うことは絶対に起きない/考えもしないようなことが起きる/だから先へ進むしかない」
日比谷のTOHOシネマズではパンフレットが完売していてがっかり。あきらめずに後日出先の日本橋でTOHOシネマズに立ち寄ると、まだ在庫があったのですかさず購入。ばんざい。映画の雰囲気に合った素敵な装丁だと思うと、たいてい大島依提亜さんのデザインである。
特に蒐集家というわけではないけれど、映画を観たら必ずパンフレットを買うようになって、途中パンフレットを買うために映画を観ていたかもしれないという偏執的な時期を経て、かれこれ四半世紀超え。実家のトランクルームに、衣装ケース3つ分のパンフレットが眠っている。
今となっては観た事実さえ忘れているような『マイ・ガール2』(1ではなくて2)とか、装丁が凝っているがゆえに保管方法に困るミニシアター系のパンフレットとか(90年代後半~00年代前半のパンフレットのデザインは凝りに凝っている。『奇人たちの晩餐会』の冊子にナイフとフォークがついていたり、アンナ・カリーナのリバイバルミュージカル映画はCDケースに収納されていたり、『えびボクサー』はえびの形だったり)、いつ・どのように処分するかを計画せねばと思う度に、いつも考えることを放棄してしまう分量にまで蓄積されてしまった。
今は映画を観たら必ず買う、というほど固執しているわけではなく、観た後に作られた背景を知りたくなったり、観た人のコメントを読みたくなったりした際に購入している。以前ほど映画を映画館で観る機会も減ったけれど、それでも年間4~5冊は順調に増えているから、いずれ真剣に在庫と向き合わねば...
今回『カモン カモン』のパンフレットが欲しかったのは、この作品の感想を誰かに言葉にしてほしかったから。山崎まどかさんのレビューがとてもよかった。
自分では言葉にできない感情や気持ち、でも確かにそこにあるものを、言葉に象ってもらえる安堵感と悦び。今回はパンフレットに載っているレビューだけれども、本をなぜ読むのかという理由の、ひとつでもある。
仕方がないわ、生きていかなければ
『ドライブ・マイ・カー』を観にいった。
1時間の筋トレの後に急いで映画館にいったので、179分の長尺、寝てしまうかなと思ったけれど、寝なかった。
喪失と後悔と再生の物語。
こういう物語に遭うと、決まって27歳の時に死んだ友達のことを思い出す。
あの時、私は自分の命が尽きるまで彼のことを思い出し続けるだろうと直感したけれど、その途上にある今も、やっぱりそう思ったままだ。
伝えないことと、二度と伝えられないことは違う。会わないことと、二度と会えないことは違う。
たとえ一生伝えることがなかったとしても、一生会うことがなかったとしても、生きているということは、希望が潰えていることとは決定的に違うのだ。
主人公の家福(かふく)とみさきの抱えて生きていくものがとてもよく分かったから、二人の乗った赤い車がたどり着いた場所に、泣いてしまった。そしてまた、あの赤い車が通り過ぎて、走り続けていく。
関係ないけど、10年くらいの月日がとても長くて重たいものだったのって、何歳くらいまでのことだろう。
今の私にとっての10年間は、たぶん高校生の時の3年間くらいの感覚。10年くらい前のことを、つい2〜3年前くらいのことと捉えている。
大人になるって、恐ろしい。
秋の気配
TBS『マツコの知らない世界』で、KREVAが文房具について、BRAHMANのRONZIが朝ラーメンについて語っているのを観た。
20代の頃ににヒップホップやハードロックのバンドで大変にやんちゃだったり尖っていたりしていて、MCすら挟まない硬派なライブをやっていたりした人たちが、いい齢になって、ゆるく面白いおじさんとしてこういう番組に出ているの、なんだか好きです。培ってきたものに対する自信と余裕があるなって思う。
今まさに20代を謳歌する若い人たちは、この人たちのことを知っているのだろうか。テレビで見かけて、どんなふうに思うんだろうか。
わたし自身は、あの頃と質は違えど20年経ってもまだ「考え中」で、立ち止まっている感はないにしても、この人たちと比べると随分と子どもっぽい気がしてしまう。
日々読んでいる本や観ている映画に「こういうことだったのか」というアハ体験を重ねながら、数か月経ったらそれをまた忘れていたりして、振り返ると全然アハじゃなかったんじゃないかと思いつつ、瞬間の閃きだからこそアハ体験なのではないかと思いなおしたりして。
人間は考える葦である、と共に、意識は単に体の副産物である、という、両刀の心構えでいたいと思う。
もうすぐ秋。