悲しみが癒えるまで

数日前の雨の日の朝に、母がマンションの玄関で滑ってよろめき、鉄の扉に頭を強打した。右の側頭部をぶつけたと言い張るのになぜか額に青痣が浮かんでいて、大丈夫だと言い張るのを説得して、脳神経外科に送り込んだ。

父が亡くなった後、そう遠くない日に母が亡くなるという覚悟は、ある程度出来上がっている。だからといって彼女が書き留めているエンディングノートや家の権利書の在り処がすぐに思い当たるわけでもないし、銀行口座や保険の加入状況もよく知らず、準備ができている、ということとは違うと思う。

入院なのであれば何をボストンバッグに詰めようか、脳は時間が経ってから突然症状が顕わになることもあるというが翌朝起きなかったらどこへ電話しようか、家の片づけには一体どのくらいかかるだろうか。母が帰宅するまでの短い間に、様々な「作業」が頭を巡った。

結局はCTスキャンの結果も問題なく、現在は目の周りが色濃く青黒くなっていて随分と眠れていない人のような様相ではあるながら(頭や顔の内出血は、時間が経つと下方へ下がってくるらしい。知らなかった!)、中身は元気そうだ。(誰も聞いていないのに句読点なく一方的に話し続ける様に、脳にできた血腫の影響か?と思わせられ、時折不安がよぎるけれど、元からの習性でもあり判別がつかないので保留。)

 

親しい人の死を経験した際の悲しみと立ち直りのプロセスには5段階があるというのは、精神科医のキューブラー=ロスが提唱した死の受容過程としてよく知られているけれど、失う前に喪失についてどれだけ考えたかが、そのプロセスにも影響してくるという。

母が亡くなるかもしれないという思った際に、動揺とか焦りとか、寂しいとか悲しいとかいう感情よりも前に、行うべき手続きや、やるべきことが真っ先に頭をよぎるというのは、母を失うということについてあれからずっと、父が亡くなってからずっと、うっすらと考えているからかもしれない。

私はずっと、独りになる準備をしている。

しかしたとえば交通事故とか、災害とか、そんな突然の出来事による死であったら、いくら考えているとはいえ、やはり狼狽えるのだろうなと思う。

とりあえず母より先には死なないように頑張りたいところ。

 

ジョギングの途中に、時速100メートルくらいで散歩をするおばあちゃんを追い越す。時速100メートルなので、私が折り返して走ってきてもまだ同じ方向に歩いていて、戻ってきてもまだ歩いている。3回目にすれ違った際に、どこで摘んだのか手にラッパズイセンを一輪握っていらして、あ、花泥棒、と思った。でも、おばあちゃんがおうちの玄関に黄色い水仙を挿している様を想像して、私もそんな散歩を楽しむ老い方をしたいなとも思った。

 

公園がめずらしく閑散としていたので、ジョギングの最後に鉄棒でプッシュアップを練習していたら、いつのまにか隣りの鉄棒に6~7歳くらいの女の子たちが3人群がっていて、私のほうをチラチラ横目で見ながら、同じように腕立てをしてみたり、器用にくるくると回っていた。「あ、スカート回り、上手だね」と思わず声をかけると、「できる?」と挑戦的な目力で見られた。「スカートはいてないからできないよ」と答えると、「はいてたら、できる?」とこれまた挑む姿勢。やー30年以上ねーやってないからなーわからないなーとモゴモゴしていたら、興味をなくしたのか、揃ってひらひらと走っていってしまった。何だかちょっと、負けた気分。