傘がない。

昨年の日本の自殺者は3万人を超えていて、増加傾向にあるといいます。


数ヶ月前、地元の小学校の同級生が、亡くなっていたらしい。自殺でした。彼女は3人の子供の母親でした。
わたしは地元の友達が誰もいないから、彼女とは20年以上も会っていなくて他人同然でした。しかし、近くに住んでいる甥が彼女の子供と同級生で、義姉が地元のお母さんコネクションで彼女と偶然知り合ったことを聞き、人の縁って面白いな〜と思っていたのです。そんな矢先のこと。


事情はまったく分からないし、何を慮ることもできないけれど。
彼女の3人の子供たちは、
今後の長い人生を、一体どんな気持ちで生きていくんだろう。


知らなければまったく知らないままのことで、これからの人生で彼女の存在すら思い出すことはなかっただろうけれど、当時は彼女の家に遊びに行ったこともありました。
束の間でも人生が交差したことのある人。やるせないです。

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彼が亡くなった日の朝は、気持ちのよい快晴でした。


その時の勤め先だった神保町の古書店街から見上げた空は、それはもう清々しい、雲ひとつない青空で、桜が散りはじめて新緑が芽吹く季節、暑くもなく寒くもない大好きな季節、憂鬱な月曜日を吹き飛ばしてくれるような、絶好のお天気でした。


ふと気づくと、携帯に着信が残っていました。
電話なんてかけてきたこともないような高校の同級生、しかも月曜日の午前中。
「はて?」と思ったけれど、仕事中でもあったし、とりあえずそのままにしておきました。
でもしばらくの後、別の同級生からも、「折り返し電話をください」という留守電が入っていて、何かただごとではない事態が起こっているということはわかりました。


でも、まさかそんなことだなんて。思い当たるはずもなかった。


次の着信を受けました。


「忙しいのにごめんね。○○が…死んだ。死んだんだ」


同級生は、「ごめんね、仕事中なのにこんな話しちゃってごめんね」と何度も繰り返し謝りました。
ヘンなの。あんなときに、何ひとつ謝る理由なんてないのに。ヘンなの。


でも、意外にそれらしい反応なんてできないものなんだってこと。


あの日は、会社のベランダで、電車のホームで、同級生の家で、いろいろな人に電話をして、いろいろな人と話しました。いつも会っている友人とも、相当久しぶりな知り合いとも。
素っ気ない人、ヤケに芝居じみた人、いつもみたいに冗談を言ってしまう人…みんなTPOって知ってる?って問いたくなるくらいに、誰もがおかしな対応を繰り返しました。自分も含めて。
映画や小説の描写が眉唾だというのはもちろん分かっていたけれど、現実は想像すら及ばなかったほど過剰で、反面、味気なく、滑稽で、重々しいものでした。
自分は想像力に長けた方であると自負していたけれど、そんなのとんでもない思い上がりだということを、思い知りました。


次の日以降の記憶はあやふやであいまいで、お通夜だったかお葬式の日だったかよく憶えてないけれど、お天気はうってかわって、朝からしとしとと雨が降り続けました。
桜の花びらがアスファルトに張りついて踏まれて、泥だらけになっていました。それを、哀しいと思いました。けれど当日みたいに晴れてなくてよかった、とも思いました。


5年。あれから5年が経ちます。
謝り続けたあの同級生は、去年結婚しました。他の人も、2児のパパになっていたり、海外転勤になったり、出会ったり別れたり、遠ざかったり近づいたり、みんなめまぐるしくバタバタと、変わり続けています。


だってあのとき彼は27歳だったのです。
ちょうどみんなが足並み揃えて次のステップを踏み出す節目の年齢だったのだなと、今振り返れば思います。


わたしの日々は、あれからずっと靄がかかったみたいにあいまいであやふやで、現実はすべて流れていく景色を車窓から眺めているみたいだった、そんな気持ちで長い間いました。
でも、いつのまにか、わたしはちゃんと、風景の中に戻ってきています。優しくて苦くて、当たり前の日常。
今でも似たようなことをしながら、同じところにいるけれど、時間は確実に過ぎていっています。ようやく、過ぎはじめています。


今年はこんな夢を見ました。
高校の中庭をみんながぐるぐるとランニングしていて、向こうから彼が走り寄ってくる。
わたしはとても驚いて、「こんなところで何やってるの?(もういなくなったはずじゃないの?)」と訊ねたら、彼ははにかんだように笑って、「自分を探してるんだ」と言った。
なんで?死んじゃってもまだ探すものなの?と思ったところで、目が醒めました。


バカだな。別に自分なんて見つけなくたってよかったんだよ。
笑いとばしてしまえばよかったんだ。
わたしが、笑いとばしてあげればよかった。

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途方もない闇に絡めとられて、逃げるという選択肢はおろか、自分の意志すらどこにもない。
そんな状態があり得るということは、よく分かっています。
でも、生きていてほしい。
止めるのはエゴだとか、死を選ぶ権利はあるとか、そんな共感なんて、誰にもしないでほしい。


あの残された人たちの狂乱を、わたしは一生忘れません。
もう誰もあんなかたちで亡くしたくはないし、誰にもあんなかたちで、誰かを亡くしてほしくないのです。