どうしてセックスと結婚以外に、あの人とつながる方法はないんだろう?

豊島ミホ『純情エレジー』を読みました。

純情エレジー

純情エレジー

これまた、帯のコピーが印象的。
「どうしてセックスと結婚以外に/あの人とつながる方法は/ないんだろう?」
『首鳴り姫』のコピーにしてもこれにしても、どちらも小説の中の一文なのですが、これを抜き出してくる編集者のセンスが素晴らしいと思います。
少なくともこの本については、わたしはこのコピーがなかったら手にとろうとは思いませんでした。


豊島ミホは、新潮社の「女による女のためのR−18文学賞」出身で、賞の特徴どおり、女性による女性のためのエロをテーマにした作品を描いていたはず。
「はず」、というのは、デビュー作の『青空チェリー』と雑誌に連載されているエッセイしか読んだことがなく特に感想もなかったからなのですが、割と多作な作家さんという印象があります。最近休筆宣言をされたらしいですが、息切れされてしまったんでしょうか。


しかし、この七編の短編から成る一冊、休筆前だからなのか、鬼気迫るものがありました。
どれも切ない作品です。


男女の関係は、好きで→付き合って→結婚して、っていう小難しくないのが一番だなと思いますが、色々な感情を知ってしまったら、そこへは戻れないような気もしていて。あるいは、元来そういう小難しい人間であること自体が問題なのかもしれませんが。
恋情と愛情と性欲と、そういうのを区分して整理しはじめたら、もうそりゃ、何がホントかわからない、こじれるに決まってます。
この作品群は、若さに衝き動かされ、理由もわからぬうちに突き進んで、図らずもそんな小難しいスパイラルにはまってしまった女の子たちの物語のように思いました。
一元的ではないからこそ魅力的な小説であり、共感を呼ぶのですが、なんだか痛々しくて、もっとシンプルに幸せになればいいんだよ、と年下の登場人物たちを諭したくなります。
結婚できないならどうするの?とか、セックスでつながることにも限界があって、とか、そういう「男女」であるからこその行き詰まり感は、とても解るけれど。それは知らなくてもいい、考えなくてもいい哀しみなのだと思います。


特に「春と光と君に届く」と「結晶」が秀逸。
前者は夫婦のうち夫が全身不随になる話、後者は同郷の2人が東京で出会う話。どちらも体験したことのないシチュエーションながら、描写が繊細で痛々しく、それぞれ違った意味で、横隔膜をぎゅっとつかまれたような気持ちになります。


ちなみに、豊島ミホもわたしの卒業した学部の後輩のようです。これまた連鎖だ!