鬼の霍乱。

プチ新年会で、会社の人に新宿御苑みの家というお店に連れて行ってもらいました。馬肉のお店です。
馬刺しは臭みも癖もなく、するするといくらでもはいります。すき焼きのような味付けの桜鍋でいただくお肉は、煮込んでもたいへんやわらかく、美味。新年早々、満腹満面の笑み。


しかし…次の日より、なんと4〜5年ぶりに、純粋に「風邪」という理由で欠勤するハメに…!


年末年始に連日暴飲してたから、薄着で夜中まで遊び歩いていたから、忘年会続きで筋トレを怠っていたから…
考えられる原因はそりゃいくらでもあるのですが、常に具合が悪そうな低空飛行ながら、めったに墜落しないことが自慢だったのに…


体調を崩すと思考回路もマイナスの一途を辿ります。
友人に「生きていてつらいことなんて無い」と断言している人がいますが、傍から見ているとそんなふうでもない、自分だったらちょっとめげてしまいそうな出来事もその人にはふりかかっていて。
要は感じ方の違い、心の持ちようの問題だと思うのです。
容量としては同じ、たとえば500mlのペットボトル1本分の「悲しいこと」が身にふりかかっていても、それを1mlとしても受けとらない人と、2kgくらいのものとして受けとってしまう人。
その違いは生きてきた途や刷り込みに依るものだろうからもはやどうにもならないし、どっちがいいのか悪いのか判らないけれど、少なくとも「つらいことなんて無い」と断言できる彼女を心底羨ましいと思うことは多々あります。


光

で、ベッドの中で読みました。三浦しをんの最新刊『光』です。
三浦しをんがこんな小説を書くなんて。人が変わったかと思うような作品でした。天童荒太とか、東野圭吾とかそういうカンジ。敢えて言うならば『私が語りはじめた彼は』以来のシリアス&ダーク路線、でしょうか。


美浜島(どうやら伊豆七島あたりがモデル)という島が、ある日津波に襲われる。生き残ったのは、中学生の信之と美花、信之を兄のように慕う輔、そしてどうしようもない3人の大人たち。その天災の夜、美花を救うために、信之はある行動をとる。
そして時は流れ、20年後。島を離れそれぞれの生活を送っていた美浜島の生き残りたちだが、再びその運命の糸が交差しはじめる─


『暴力はやってくるのではない、帰ってくるのだ』というのが帯のコピー。暴力をテーマに据えた作品です。何が暴力なのか、どこまでが暴力なのか、暴力を受けたら人はどうなるのか…なんとも陰鬱で悲しい。
しかし何よりも、登場人物たちの愛情や好意や思いやりが描かれてはいるのですが、彼らの思いがすべて一方通行で、誰一人も双方向に想いあってはいない、ということが最もずっしり心にきました。それでも、そのことを周りはおろか当事者さえも気づいていない場面ばかりなのです。相手を見くびったり、嘲ったり、見下していたり。でも一方では、見くびられたり、嘲られたり、見下されたりしている…悲しいかな、どこにでもあり得る人間関係です。傍からみたら、信之の家庭は円満な普通の家庭で、美花は成功している女優で、輔は社内恋愛中で…。


自分とは違う人間の心なんて絶対に判り得ません。
誰かを本当に理解することも救うことも、それができると思うこと自体が欺瞞だと、わたしは思います。
だけど、その事実を受け止めて、そのすれ違いや隔たりを何か別の形で埋めようとすることが、人と関係を紡ぐということではないのかと、そう思います。
まあ、「信じる」という思いこみや心の持ちようで、気づかぬまま埋めた風に思えるものでもあるのかもしれませんが…
ここまできてどうしたら、気づかないフリを、できるのでしょうか。


ダウナーな時に読むと立ち直るのに相当時間を要しますが、それほどすごい小説です。