幸せという怪物。

映画『人のセックスを笑うな』を観て以来、フィッシュマンズを懐かしく聴いています。
特別なバンドというわけではなかったけれど好んでよく聴いていた音楽ではあったので、佐藤伸治が急逝したというニュースは、当時やはりショックでした。
彼の詞はとても簡素で言葉少ななのに、独特で強烈で美しい。音楽と相乗すると、さらに。
『Baby Blue』という曲に、「今日が終わっても/明日がきて/長くはかなく/日々は続くさ」という歌詞があるのですが、その先に「意味なんかない/意味なんかない」と歌われた際には、18歳のわたしは「そうか、意味ってなくていいんだ!」と目から鱗でした。
夭折した人の言動や作品は「死の予感がした」と評されがちですが、やっぱり確かにそんな気がしてしまう、それがとても切ないです。


3年前に友人が亡くなったとき、わたしには予感もへったくれもありませんでした。ただすごく憶えているのは、前日がすがすがしい日曜日だったということ。
珍しくなんの予定もなかったわたしは、自転車でタイマッサージに出かけ、夜はラタトゥイユを煮込んでやや失敗、新しい恋に思いを巡らせたりして、夜が更けていきました。本当になんでもない、どうでもいい1日だった。
次の日の朝もすばらしい青空で、お昼近くに友人から電話を受けるまでは本当に、本当に彼のことなんて、微塵も思い出さなかったのです。
あの日曜日、彼も特に誰に会うわけでもなく、ずっと自室にいたときいています。虫の知らせの虫は、一体あの日何をしていたのでしょう。せめてメール1通、電話の1本できなかったのか。3年前の今日、誰もがそうして自分を責めたに違いありません。だけど起きてしまったこと、誰にもどうすることもできなかったのです。


あれから3年、いろいろなことがありました。
友人は享年27歳でしたが、ちょうどそれから3年というのは、転勤だったり結婚だったり出産だったり、年齢的に周囲がひと息に、めまぐるしく変わっていく時期でもあったのですね。彼の周りの友人たちの状況も、ずいぶん変わったように思います。それは少し寂しくなるほどに。
まあ、わたしにも、楽しいことや嬉しいことがたくさんありました。でもなんでしょう、なんだか長い映画を観ているような気持ちなのです。ぜんぶ自分の身に起きていることなのに、ぜんぶが自分のことではないような。


今年も彼のお墓はたくさんのお花やお酒に囲まれて、持って行ったカサブランカの置き場所はありませんでした。
悲しまなくていいし美化してもいいし忘れてもいい。わかってはいるのです。