馥郁たる春を待つ

3~4年前からお直しどきだと思っていたけれど、高額な修理代にひるんでなかなか思い切れなかった黒いライダースジャケット。しかし、久々に着ようと思って引っ張り出したら、さすがに色の剥げ方と皮の破れ方がみずぼらしいレベル…

えいやと思い立ち、いよいよ修理とクリーニングに出してきた。

「結構着込んでいらっしゃいますね。何年前にご購入されました?」というお店の方の問いに、「えっと…15年くらいですね」と答え、我ながらびっくりした。

買った時のことはいまだ鮮明に憶えている。今でも世の平均以下であろう給与が、更に雀の涙ほどの金額だった頃、6万円を超える本革のライダースジャケットは、わたしにとってとっても高い買い物だった。その割には即断したほど、袖を通した瞬間に気に入ってしまった。

特に有名なブランド物ではないけれど、イタリアからのインポートで、細身すぎず多少のゆとりもあり、丈は腰骨にかかるくらいで短すぎない、シンプルなシングル。

 

もともとのミーハー気質から色々な服を着たい気持ちが強くて、服はチープなものを好んで着てきた。

おしゃれな友人たちや、ソニア・パークみたいな、マガジンハウスの雑誌に出てくる人たちに強い憧れはあって、彼らみたいにシンプルな色合いで上質なセーターやシャツも持っていたいけど、これを買ってしまったらワクワクするような色やデザインの服を買うことができないし…(お金、ないし…)
安くて流行りのものは、2シーズンくらい着たら繊維も気持ちも劣化してしまうものが多いのは自明だ。分かっていながら、“安物買いの銭失い”を王道でいき、フェアトレードやエコとは真逆の嗜好を持つ自分に、少々嫌気はさしていた。

だけど、大切に長く愛用しようと意識したことはなかったけれど、本当に気に入ったものは、私でもこうして長く使えていたのだ。
そういえばあのブーツも、バッグも、このネックレスも、バングルも。バングルに至っては、何度も修理に出して、修理代が購入額を超えてしまっている。


齢を重ねて、あらゆるトライアンドエラーを繰り返して、自覚のないうちにも取捨選択の力がつき、自分にとって不要なものは削ぎ落とされ、本当に便利で大切なものだけが手元に残っていく。

いくら雑誌で『長く着られる服』や『スローファッション』というような特集を見ても憧れても、自分には適用できずにもどかしかったけれど、いつのまにか、地で『長く使う』をいっていた。

憧れだけでは到達できなかった場所へ、実体験を積み重ねて、ようやく近づくことができていたということだ。

 

ライダースのお直しはだいぶ混んでいて、出来上がりまでなんと1ヶ月待ち!この春にちょうど間に合うか間に合わないかの時期だけれど、どんな顔をして帰ってくるのかが楽しみだ。

 

夕飯は、通りすがった中目黒の八じゅう。

壁に描かれたリリー・フランキーのサインがかわいい。店員さんも皆にこやかで親切。尾道焼き、初めて食べた。

 

世間は不穏なニュースばかりだし、会社の先行きは不安だし、アレルギー全開で体調は低空飛行だし。ここのところ打開策もない靄のなかで気持ちが落ち込みっぱなしだけど、春に向けて、少しは前向きにシフトできるかな。

父の履歴

もうすぐ父が亡くなって1年。
歯ブラシとか下着とか、もう必要ないことが明白であるものは母が早々に処分していたけれど、人が70年近く生きた軌跡を払拭するには1年という時間はまだまだ短すぎるようで、家のあちらこちらからまだ父が使っていた物が出てくる。

先日は「これパパが使っていたパスモ、返してきて」と母からICカードを渡された。

駅の券売機でまだ600円あまり残金があることを確認、そのまま取り出して窓口に行こうとしたけれど、ふいに思い立って『履歴表示』のボタンをタッチしてみた。

そこには、自宅の最寄りバス停から、父が聴講生として週に数回通っていた大学のあるバス停までの往復の履歴が、几帳面に、周期的に、淀みなく記されていた。何とも真面目な男である。と同時に、定年退職をしてからは、大学へ行く以外には交通機関を定期的に利用する機会ももうなかったのだなと思い至る。

この半径3km程の範囲のなかに、父の静かな毎日があったのだ。

 

履歴の一番最後だけは、片道。6月20日。この日に父は大学で倒れ、それから二度と我が家に戻ることはなかった。

 

結局私はまだ父のICカードを返却できずに持っている。履歴を見たことを、母には言わなかった。とりあえず残金を使ってしまおうと思っているが、その後にこのカードを返却できるかは、まだ分からない。

崩壊する年越し

年越し。
大学生の頃以来30代前半までは、カウントダウンイベントに行ったり夜通し友達の家で騒いだり、実家で紅白を観ることすらなかったけれど、ここ何年かはすっかり実家で紅白鑑賞派に逆戻りしていた。
齢をとって、から騒ぎが億劫になってきたということもあるかもしれないけれど、自分の人生において家族と過ごせる時間そのものがカウントダウンを迎えていることを、うっすら感じとっていたのかもしれない。

2013年、父が脳出血で倒れた。
父が入院していたその年末は、過ぎた年を振り返り来る年に希望を抱くような心持ちにもなれず、年越しのときにどんな気持ちでいたかもよく憶えていない。

2014年の2月、父が死んだ。
そして父がいなくなった2014年の年末、母と2人きりであった。

喪中にかこつけて大掃除もお節づくりもパス、正月行事に重きを置く人がいなくなったのをいいことに、年末年始感のなさが半パない実家。大晦日が迫るなか、なんだか気分が晴れない、もやもやとした数日を過ごした。

そんな折、『久保みねヒャダ』(フジテレビ)で、能町みね子さんがご実家での年越しの様子を語られていた。
能町さんのご実家では、皆でカウントダウンをして新年、という年越しの概念が既に崩壊していて、お母さんが大晦日の23時45分頃にお風呂に入りにいってしまう、というような話をしていた。

すごく腑に落ちた。

家族で年越し蕎麦を食べて~紅白を観て~ゆく年くる年で~12時になったら「おめでとう」を言い合い~元旦の朝には早起きして~お屠蘇とお節とお雑煮─生まれてこの方、実家で過ごすのであればそんな「年越し」が定番であると思いこんできた。
あのもやもやは、それを逸脱してしまうことへの呵責と恐れであった。
そして、父が死んでしまったことによって、「父─母─子」という30数年守ってきたわたしの家族のフォーメーションが、わたしの家族が壊れてしまったことに対する、茫洋とした哀しみでもあった。

だけど年越しの形なんて、どうということもない。
迎え方の形を変えたって、新しい年は他の人と平等に今年も母とわたしにやってくるし、まぎれもなくわたしの家族である母は、まだここにいる。

というわけで、2014年から2015年になる瞬間に、わたしは読書をしながら入浴していた。母は既に寝床に入っていて、わたしがお風呂から出たら、ジルベスターコンサートをテレビで観ながら歌う母の声が聴こえてきた。

なんだかすごく、すっきりした。

また母やわたしがそんな気分になったら、はたまた家族が増えたりした場合には、また定番の「年越し」を迎えてもよいし、この先ずっとこんな年越しやお正月だっていいのだと思う。
フォーメーションは変わったけれど、わたしの家族は崩壊してはいない。スライムのようにゆるゆると、また形を変え続いてゆくのだろう。

さようならの向こう側

2月の末に父が亡くなり、4月に愛猫が亡くなり、5月には父方の祖母が亡くなった。


文字面にするとなんとも壮絶で怒涛な印象だけれど、ドラマチックなほど悲嘆にくれるわけでもなく、大方が事務的で、滑稽で、淡々とこなされていった。


泣いていないわけではない。だけど起こったことの割には、日々はずいぶんとあっけない。


けれど、9年前に友人が亡くなった時のことは、今でもさして薄れることなく憶えているし、あれからも幾度となく思い出してきた。彼のことを取り乱さずに話題にできるようになったのは、それほど前のことではないような気がする。


比べることではないけれど、今回はさほど理不尽な死ではないから、すんなりと咀嚼できるのだろうか。
それとも、わたしがずいぶんと大人になったのだろうか。


まあ、父についてだけは、少し早く逝ってしまったなとは思うけれど。


死は気づいたときにはすぐ傍まできていて、あっという間にさらわれていってしまう。
そしてちゃんと夜は更け、朝が来る。


福岡の父の実家で、あの古い日本家屋で(今はもう取り壊されてしまったけれど)、整理整頓が苦手な祖母のせいで(ああ今思えばわたしの整頓下手は祖母の血なのか)、乱雑に物が入り乱れたあの居間で、晩酌をしながら炬燵に入って新聞を読む父の膝に(大好きなお酒を8か月も飲んでいなかったし)、猫がミャーミャーいいながらのぼっていって(猫は東京にしか住んだことがなかったけれど)、相好をくずして猫を抱っこする父、その父にとりとめもないことを話しかけながら台所と居間を行き来する祖母、ずいぶん前に亡くなった、祖母の愛犬もいるかもしれない、


思い描くのは、そんなありえなかった光景。
そんなふうにあちらでも、穏やかに時が繰り返しているといいと思う。

年賀状はまだ書いていない。

世界で使われているmade in Japan製品を探すというテレビ番組の企画で、ギリシャの小さな田舎街にある小さな理髪店がクローズアップされた。
そこには42年前から使われている日本製の理髪店専用のセットイスがあって、お店のお客さんである近所の人たちは口々に「このイスは最高に寝心地がいいよ」「他にないからまた座りに来ちゃうんだ」とイスを絶賛、店主である理容師さんも、とても大切に丁寧にそのイスを使い続けている様が映し出された。


その番組のすごいところはそこから。


70代〜80代のお爺さんたちが集められて、そのVTRが見せられる。彼らは40数年前にそのセットイスを製造販売していた会社に勤めていた人々。職人であり、事務方であり、海外営業であり。かつてセットイスを作り売ることに情熱を傾け、誇りと生活を賭けて尽力した人たちだった。
彼らは遠い国の片田舎でイスが使われていることに少し驚き、「こんないい状態でまだ使ってくれてるんだ」「革を張り替えてあげたいね」とVTRに見入る。
そこでギリシャ人の理容師さんは、カメラに向かって満面の笑みでこう言った。


「こんなにすばらしいイスを作ってくれてありがとう。このイスのおかげで私は子供を育て学校に行かせることができたし、街の人たちも幸せだ。ありがとう」


お爺さんたちはえも言われぬ表情をしていて、涙ぐんでいる方もいた。わたしも画面の前ではらはらと泣いてしまった。


そのイスの会社はまだ存続していて、いま現役でその会社に勤めている人たちもそのVTRを見せてもらっていた。VTRを観た後の「嬉しいですね」「また明日からも頑張ろうと思います」という彼らの姿はとても頼もしく、やる気に満ち溢れていた。


生きているとそりゃあ迷うことも不安なこともたくさんあって、いつも見失いそうになるけれど、わたしが今までやってきたこともこれからもやっていきたいことも、こういうことなんだと思う。それは仕事のことだけではなくって。


大義を見失ってはいけない。


年賀状は徐々に書きます。みなさんお元気でしょうか。
2013年もみなさんにとってすばらしい年となりますように。

忘れてはいない。

I think it translates better in Japanese, but...
「手伝わせていただく」。
「手伝う」んじゃなくて。

It's them letting us help.
God or whoever saved my life from this disaster is allowing me to help.

彼がこの言葉を言う部分を観て、涙がでた。
外国人なのに、というより、彼らだって被災者なのに。


なんだか人気のあるバンドね、外国人なんてめずらしいのね、
という程度の認識しかありませんでしたが、
わたしはこのドキュメンタリーを観て、MONKEY MAJIKが好きになりました。
この曲も、すばらしい支援ソングだと思う。

無力に思えても小さいことでも、みんなが行えば力になる。
わたしにもまだできることがたくさんあるなと思います。
力になりたい。


お兄ちゃんのメイナードが、
FreetempoSky high』のボーカル・blancだっていうことも初めて知りました。
大好きな曲。

自分の好きな声というのは確実にあって、いつも無意識に反応してる。

怠惰を逃れる術がない。

中原中也の『山羊の歌』のなかに『憔悴』という詩があって、
わたしは休みの日が終わるたびに、このフレーズを思い出します。

「あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰をのがれるすべがない!」

休みを前にすると、
普段毎日の仕事やおつきあいに追われて疎かになっていること、
やりたいと思ってやっていないことを思い浮かべて、
休みがきたらあれもやろうこれもやろうとウキウキするのですが・・・


結局、いつのまにか休みの終わり。
何もできていない。


中原中也、あなたは核心を知っていたよ。

山羊の歌―中原中也詩集 (角川文庫―角川文庫クラシックス)

山羊の歌―中原中也詩集 (角川文庫―角川文庫クラシックス)

でも、きっと今年も足ることを知らないんだろうなという自分が、
頼もしくもある2012。


みんなにとって実りある、楽しい1年となりますように!